台中市模範郷、あるいは大和村

 台中の真ん中、台中駅と市役所の間にある西区模範街、民権路は、かつては大和村と呼ばれていました。
 米陸軍作成の1/8000(1945)を見ると、市街地の外れ、梅川と土庫渓に挟まれた水田の中に、整然と区画された宅地が造られています。
 「大和村建設志」(台中図書館所蔵) 全89ページの冊子には、「荒涼たる田圃叢原に槌音勇ましく広漠三万坪の文化住宅区が完成した時、市民は驚異の眼をみはった」とあります。
 台中州内務部長佐治氏らの旗振りの元、組合方式で「八十余戸の文化住宅軒を並べ・・・市内唯一の文化部落を形成」したのは昭和17年3月のことでした。
 各戸、それぞれ趣向を凝らした設計で、幾つかの図面も収録されています。
 日治二萬五千分之一地形図(1921,大正10)で見ると、「大和村建設志」がうたうように、郊外の田んぼの中に忽然と建つ住宅街だったことが想像できます。
 数奇な運命をたどった旧大和村。昨年(2016年)出版されたリービ英雄の著作 『模範郷』 の地であり、今回台北を案内してくれた、旧知のE女史が生まれた街でもあります。彼女の家族は今も台中に住んでおり、私の案内のために来てくれました。謝謝。
 模範郷のもう一つの歴史。1954年、中華民国陸軍総司令だった孫立人は、クーデターを画策したとの嫌疑により免職、模範郷の一角に軟禁されました。軟禁を解かれたのは1988年、その2年後91歳で亡くなっています。
 死後、名誉回復された孫立人が軟禁されていた旧居(日本家屋)は、孫立人将軍記念館となり公開されています。
 『模範郷』 でも印象的に語られている、塀の上のガラス片は、孫立人将軍旧居にもありました。
 次いで、同じ町内のE女史旧居(笑) 何世帯かを経て、現在は空家です。
 完成からわずか3年半、中華民国政府に接収された大和村は、政府高官や米軍顧問団の住居として使われました。
 日本式表札の跡。子供の頃から、この状態だったとのことです。
 E女史のおじいさんが民権路(大和村)に住んだのには、もちろん理由があります。蒋介石より年長で、国民党の重鎮。wikipedia によると、元々は張作霖系で張学良と共に国民党へ加わった大物で、青島市長、山東省政府主席を歴任。若い頃には、日本に留学しています。
 E女史のお母さん、超美人。モーターバイクに乗せて案内してくれた E女史も、お嬢様だったのかぁ。
 ここの塀にも、ガラス片がありました。
 門の鍵が閉まっていて入れませんでしたが、2年前にE女史がお母さんと潜入した時の写真。
 1970年代の家の周り。まだ、戒厳令下(1987年まで)です。
 日治時代の大和村は通称名で、住所は後壠子(きょりゅうし)でした。その後、模範郷、模範村、アメリカ人は Model Village と呼んでいました。現在の地名は、模範街、民権路。民権路の北にある大和路も、旧大和村のエリアですが、民進党政権時代にできた新しい地名で、国民党員は「(日本へ秋波を送るようなことは)勘弁してよ~」 と思っているかも。